『死の人類学』内堀基光 山下晋司
至上の超越者である「死」を、人間がどのように文化の中に組み込んできたのでしょうか。本書では、死に対する人間の態度を描こうとするものです。「死」を扱った本の紹介が多くて申し訳ないです(笑)。
- 作者: 内堀基光,山下晋司
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/11/10
- メディア: 文庫
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内堀基光(1948~)
東京生まれ。東京大学教養学科卒業。同大学院博士課程中退。
山下晋司(1948~)
山口県生まれ。東京大学教養学科卒業。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。
1.死の人類学の可能性
「死の普遍性はその生物学的な所与性においてよりも、それを認めざるをえない人間の意識の本源的なあり方において語られねばならない」(p.23)
個々人の死、愛する者の死、憎しみの対象となっている者の死、関係の薄い人々のあれやこれやの死、こうした身体的な出来事としての死が、単なる一つ一つの喪失や消滅ではなくて、不可避の運命の帰結として、死というものを人間に考えさせる契機として現れるようになっている。
2.イバン族における生と死
「イバンの死は激情的な悲嘆の表出によって取り囲まれる。」(p.81)
イバン族は別称ダヤク族ともいい、ボルネオ島の西部丘陵地帯に住むプロト・マレー系の民族である。死はできるだけ速やかに、できるだけ目立たないかたちで処理されるのが望ましいというわけで、イバンの死につづく簡素な儀礼の中心にあるのは、サバック(sabak)と呼ばれる儀礼的涕泣の行為であり、「嘆き」あるいは「泣き」を意味する。この悲嘆の音声が人が死んだ日の夜をとおして暗闇のロングハウスと付近の林を満たすらしい。
3.イバン族における死の解決
「社会的役割の分配をめぐる再編成は、人の死後になってはじめて緊急の解決を要する問題となるわけではなく、生の過程にすでに予期されたものとして仕組まれているのである。」(p.146)
子孫の確保は多くの社会、とくに明瞭で肯定的な他界観を欠く社会においては、死を超越する唯一とはいえなくても最良の方途であろう。イバンは死霊としての死後の存続に大いに関心を払って、子孫の確保は一種の隠喩のレベルにおいて社会的不死につながるビレック家族の永続への期待の前提条件であるという。
4.トラジャにおける生と死
「トラジャの社会にあっては、死は際立った重要性をもち、特異な問題群を提出するものとして現れる。」(p.176)
インドネシア共和国、スラウェシ(セレベス)島内陸山地部に居住するプロト・マレー系の民族集団サダン・トラジャ族である。現代社会が死を白亜の病院に閉じ込め、葬儀を葬儀屋に委ねるのに対して、彼らの社会と文化においては、死とそれに続く葬儀はその社会と文化の全体にかかわるものとしてある。
5.トラジャにおける死の解決
「肉体的な死はトラジャの死の必要条件ではあるが十分条件ではない。」(p.253)
死後、遺体は水で灌せられ、新しい布で包まれ、住居の奥(南側の部分)に西枕で寝かされるが、この状態の死者は、死者とは呼ばれず、「熱い人」(病人)である。「熱い人」が「死者」となるのは、死後一定期間の後に死者儀礼が始められてからであり、トラジャの死はきわめて儀礼的に定義されている。
6.結論
「社会という舞台からのこのような死の追放は、西欧においては一九世紀後半の近代社会の成熟と整備の中で徐々に進行していった。」(p.324)
この過程は西欧においては性が解放されていった過程と整備の中で徐々に進行していったという。性と生と結びついて、近代の前進する時間のなかでプラス価値を獲得していったぶんだけ、近代の時間意識になじまない死は、かつての性のように、人々の前から忌み隠される存在になっていった。
[感想]
本書は、20年以上前に出版されたものの文庫化されたものです。インドネシアの異なる二つの部族、すなわちイバン族とトラジャ族で綿密なフィールドワークを行った著者達が、対照的なれぞれの部族の死生観の違いを通して、人類一般の「死の人類学」というものを考えようとする。末尾で引かれる伊丹十三『お葬式』が極めて象徴的で、「祭儀」が「思い浮かべる」べき何かを失ってしまった人間にとって、葬儀における立ち振る舞いの一切はマニュアルの猿真似に終始するしかない。少し読みづらさはあったが、非常に有用な一冊だと思う。