『<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』中島義道
著者は、なぜ日本の人々は無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?と問いかけ、日本的思いやり・優しさこそが、<対話>を妨げていると指摘する。少し懐疑的に読みましたが、面白い一冊でした。
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
- 作者: 中島義道
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 1997/10
- メディア: 新書
- 購入: 5人 クリック: 65回
- この商品を含むブログ (74件) を見る
中島義道(1946~)
福岡県生まれ。東京大学人文科学研究科修士課程修了。ウィーン大学哲学科修了。哲学博士。
1.アアセヨ・コウセヨという言葉の氾濫
「われわれ日本人は『お上』の言葉に疑問をもたないように、みずからを鍛えあげたからである。」(p.63)
小学校の全校集会で校長先生の言葉など、私たちの耳は、こうした「暴力的に無意味な」言葉の洪水に慣らされてしまったという。このような定式化した挨拶の洪水は、言葉を大切にせず、言葉を「聞き流す」態度を産出しているという。校長先生の長い話に何の意味があったのか、という話題はあるあるですね。
2.<対話>とは何か
「<対話>とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何ごとかを語ることである。」(p.102)
加えて、「<対話>とは全裸の格闘技である」(p.122)ともいう。すなわち、個人と個人とが「生きた」言葉を投げ合うことで、何を語ったかのみならず、だれが語ったかが重要なファクターだという。しかも、感情的に訴えるのではなく、あくまでも普遍的な真理をめざして論理的に精緻に語ることを求める。
3.<対話>の敵――優しさ・思いやり
「若者たちは『思いやり』を尊重するゆえに真実を語らなくなる」(p.144)
「思いやり」や「優しさ」という名のもとに、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、<対話>を拒否する社会ができているという。「思いやり」が「利己主義の変形」だとし、だから「思いやり」を素直に受け止めない相手を憎んでしまうという。確かに、それは純粋な「思いやり」ではない。
[感想]
荒々しい表現も多いが、内容には「なるほど」と思わされる部分が多かった。それは、著者が指摘するように、「思いやり」の暴力に寸時も気づいていないからであろうか。確かに、だれも傷つけないように何かを語ることはできないし、人を傷つけても真実を語ることは、責任も伴うが大切かなと思わされた。だれをも絶対に傷つけない言葉を発すること、それはもう言葉の否定以外にありえないのかもしれない。