『顔の現象学』鷲田清一
人ごみを歩くと、様々な顔が見えます。すれ違う顔もあれば、微笑みかけてくる広告もあります。他人との共同的な時間現象として出現する曖昧微妙な顔を、現象学の視線によってとらえる興味深い本でした。
- 作者: 鷲田清一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/11/10
- メディア: 文庫
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鷲田清一(1949~)
京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。専攻は哲学・倫理学。
1.〈顔〉
「同じひとの〈顔〉といっても、いったい彼のどの顔に定位したらいいのか。」(p.16)
顔というのは不安定である。顔は静止していない。男性であれば、朝に整えた顔も夕方になれば脂ぎって髭もめだってくる。女性であれば、化粧を落とせば他人のような顔が現われる。さらにひとは顔を「作る」場合もある。こうして他人の顔に関しては、われわれがふつう接するのはそのうち一つか二つの顔にすぎない。どれが、ありのままの顔かと問われたら、おそらくだれもが返答に窮すると思う。
2.ほんとうの顔?
「〈顔〉はわれわれの社会では、つねに『だれかの顔』である。」(p.48)
ほんとうの顔、偽りの顔という言い方は、顔の本来あるべき状態、つまり「素顔」という観念を前提している。「自然の美しさのかかわりかたを規準として、身づくろいと化粧へと分割されている。ファンデーションは? 香水は? 整髪は? 義歯は? 口紅は? スカートは? ストッキングは? ハイヒールは?
3.顔の外科手術
「化粧は、肌に被せられた透明な覆いではなく、むしろ肌をデザインしなおす行為であり、つまりは顔の《外科手術》なのである。」(p.80)
われわれの〈社会〉に流通するメイクされた顔、それは類型としての顔であり、だれの顔でもないがゆえに、だれの顔にもなりうるような、いわば貨幣のような顔であるという。われわれに化粧を強いるこの社会において、現代の大衆として再生産されている。
4.見られることの権利
「写真を撮られるという経験は、自他のそういう共謀関係を他者によって一方的に断ち切られるという出来語にほかならない」(p.191)
カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代りに、無意識に浸透された空間が現出するところにあるという。
[感想]
顔、という部位を人間的に捉えてあります。そして、阿部公房、大岡昇平、ゴンブローヴィッチ、清水アリカ、三島由紀夫、リルケ、ジャン・ジャック・ルソーなど非常に多くの文学作品に触れられています。私は、いつからか目を見ながら話すことを意識しないと、相手の顔をまじまじと見ることも少なくなりました。顔、という中に様々な言い尽くせない、言い難い事を本書は解りやすく導いてくれます。読めば読むほど深いと感じました。